古代から現代までのハーブの歴史の中には、特に重要な役割をはたした著名なハーバリストたちが存在します。
主に西洋のハーブの歴史において著名なハーバリストたちを紹介していきます。
ヒポクラテス
ヒポクラテス(または”ヒッポクラテース”, Hippocrates)は、紀元前460年頃、古代ギリシャ・イオニア地方のコス島に誕生した医師でした。
彼の主な実績は、それまでの原始的で呪術的であった医学を、臨床と観察に基づく科学に発展させたことです。
書物として存在する『ヒポクラテス全集』は、彼の死後100年以上後に編纂されたもので、ヒポクラテス以後の著作も多く含まれているとされています。
また、医師の倫理性と客観性についても説き、その内容は現在『ヒポクラテスの誓い』として残されています。
彼の唱えた説の中で有名なものが、人間の体質を4種類の体液に分け病気を説明した「四体液説」です。「四体液説」では、人の体液は4種類に区分され、その4種類の混合に変調が生じた結果、病気が起こると説きました。
またヒポクラテスは、環境(自然環境、政治的環境)の影響によって健康に変化をきたすことを説いた先駆的な存在でもあります。
このようなヒポクラテスの科学的な姿勢と業績は、後に、古代ローマの医学者ガレノスに受け継がれ、その後の西洋医学に大きな影響を及ぼし、「医学の父」と呼ばれています。
ハーブの分野においては、ヒポクラテスは、医学の処方として初めてハーブを処方したとされます。そのハーブは400種類にのぼり、彼の弟子たちによってそれらの処方と彼の研究は、中世まで受け継がれました。
中世ヨーロッパでは、サレルノ医学校の教師たちが健康についての読本『サレルノ養生訓』を著しましたが、この医学校が受け継いでいたのがヒポクラテスの医学です。
健康・食生活・衛生面と、生活すべてについて考察されたこの書籍は、ヒポクラテスが発展させた、”科学としての医学”、”観察に基づく医学”を発展させたものでした。
ヒポクラテス以後
このように、現代のハーブの利用の開祖ともいえる大きな業績を残したヒポクラテスですが、彼の死後、西洋の歴史の中で、彼が行った医学とハーブにおける発展は、残念なことにその後停滞していきました。
ヒポクラテスが用いたハーブと、その利用方法
ヒポクラテスのハーブの利用目的として、体内の有害物質の除去が挙げられます。
下剤、発汗剤、吐剤として用いられたハーブは、約60種類という記録が残っています。
現代でも人気の高いハーブティーは、ヒポクラテスがハーブを煮出した液を薬として処方したのが、その起源とされます。
さらに、痛みに対して鎮痛効果のある香油を塗布したり、お湯にハーブを浸して沐浴することの身体的効果もヒポクラテスは認めています。香油の薬理効果や現代のハーバルバスの手法がすでにヒポクラテスによって発見されていたのは、とても興味深い事実です。
現代の代替医療・統合医療と、ヒポクラテス
現代、ハーブが好まれることの大きな理由と、ヒポクラテスの医学の根本には、大きく通じるところがあるでしょう。
近代医学によって化学合成薬がハーブに取って変わった結果、身体全体を見ることが軽視され、病や症状が個別に判断されるようになりました。こうした姿勢は、ヒポクラテスの生きた古代ギリシャの時代にも存在しました。
古代ギリシャには、クニドス派とコス派(ヒポクラテス派)の二つの医学の学派がありましたが、クニドス派は、身体の中で病を起こした場所を特定し、治療する方針でした。
一方、ヒポクラテスが属したクス派は、ひとつの症状の病においても身体全体を観察し、さらに環境や食事の影響も考慮し、症状のある患部のみを重視することはありませんでした。
現代の代替医療・統合医療も、こうした「身体全体」をひとつの存在として把握する認識の上に発展しているといえるでしょう。
ひとつの有効成分のみを抽出する化学合成薬ではなく、多くの成分をそのまま利用し、それらの成分の「相乗効果」まで考慮されたハーブの利用方法は、ヒポクラテスの手法まで翻ることができます。
ヒポクラテスが、特定の部位の症状のみを病として扱わなかった理由として、「自然治癒力」に焦点を当てた医学だったことも挙げられるでしょう。
人間の身体は、意図的に外部から手を下さずとも、身体自らがバランスを整え、自らを癒す力を持っているという発想は、現代の統合医療に通じるものです。
彼が行った治療は、こうした「自然治癒力」を引き出すための、身体のバランスを再調整するものだったといえるでしょう。