古典文学・文化の復興であったルネサンスは14世紀イタリアで始まりました。イタリアの地でルネサンスが起こったのは、北イタリアのトスカーナ地方を中心に、地中海貿易で東方の事物が入ってきたことも影響しています。
さらに15世紀には、コンスタンティノープルの陥落(=東ローマ帝国滅亡、1453年)のため、東ローマ帝国から多くのギリシア人知識人がイタリアへ亡命し、その知識と古典の書物をもたらしたこともまた、イタリア・ルネサンスに寄与しています。
こうしたことから、当時のヨーロッパでは、イタリアは文化の中心であるとともに、薬草研究の本場でもありました。
サレルノ医学校
またイタリアでは、ルネサンスより遡(さかのぼ)る800年頃から、イタリア南部の都市サレルノに、ヨーロッパ最古の医科大学であるサレルノ医学校が存在しました。
修道院の内部において古代のハーブの知識は保存・研究されてきた中世の時代ですが、サレルノ医学校だけは、宗教や修道院とは関係なく独自に研究がなされてきた場所でした。
地中海に面したサレルノは、かつてギリシャの植民地でした。
そして当時は、北西部(西ヨーロッパ)にラテン・カトリック、北東部にギリシア・東方正教(ビザンツ)、南部(中東、北アフリカ、イベリア半島)にはアラブ・イスラム世界と、様々な異なる文化と宗教に接していました。
これら”文化の接点”の地ゆえに、アラブやユダヤ出身の医師たちも集り、医学が発展していきました。
『サレルノ養生訓』
11世紀には、サレルノ医学校の教師たちが『サレルノ養生訓』という健康についての読本を著しました。ヒポクラテスの医学をひきつぎ、健康・食生活・衛生面と、生活すべてについて考察された書でした。
『サレルノ養生訓』はラテン語の詩の形で記されているものの、医学校の評判が上がるにつれてヨーロッパ各国の言葉に翻訳され、なんと1500版も重ねられました。
サレルノは14世紀イタリアでのルネサンスを待つ前に、すでに11世紀初頭には、古典文学の研究や、外国からの知識を吸収できる文化の中心地でした。
古典のギリシャ・ローマの医学を研究する中で、人間の健康に関する自然哲学も盛んになり、医学が発展してきたのです。そして、11世紀末にはアラビア医学の影響も受け、ハーブの研究も行われました。
当時は、また病気の治療を行うのは修道士たちでしたが、1138年にはサレルノにサン・ビアージョ病院(ospedale di S. Biagio)が設立され、修道院とは関係なく医学を学んだ者たちの手で治療が行われていたことは、ヨーロッパの中でも特異的なことだったでしょう。
サレルノ医学校では、当初はアラビア医学を実施として教えていましたが、12世紀になると、こうした病院での実地の知識が培われ、古典の翻訳ではない独自の教科書が作られます。
マッテオーオ・プラテアーリオ(Matteo Plateario)が著した薬草に関する書籍『De simplici medicina』は、その代表的なもので、14世紀までにはイタリア以外のヨーロッパにも広がり、薬草を扱う者たちへもハーブの知識を伝えるものとなりました。
ミネルヴァの庭園
サレルノ医学校は、現在はサレルノ医科大学として存在していますが、今もかつての面影を忍ばせているのが、”ミネルヴァの庭園(Giardino della Minerva)“です。サレルノ医学校の学生たちのために、医学校付属の薬草園として造られ、ヨーロッパで最初の植物園だろうと言われています。
現在のミネルヴァの庭園は、17世紀頃に装飾されたものですが、ヨーロッパ中から取り寄せた植物を栽培・研究した薬草園の雰囲気を、十分味わうことができるでしょう。
サレルノ医学校でヨーロッパ中から植物を取り寄せ研究していた医師・植物学者のマッテーオ・シルヴァティコ(Matteo Silvatico、1285~1342年)は、薬草487種類と、植物1972種類について書き記した著書『Opus Pandectarum Medicinae』を著しています。