ジョン・ジェラード(John Gerard, 1545~1611年または1612年)は、イギリスの植物学者です。
『The Herball or Generall Historie of Plantes.*1)(本草書または植物の話)』(通称「ジェラードの本草書」(Gerard’s Herbal))(1597年)の著者として有名です。
注*1)現代の英語では「The Herbal or General history of Plants.」と記す。
またジェラードの名は、植物の学名の中でも、”命名者”を示す語として「J.Gerard」と表記し、使用されます。
ジェラードの生い立ちと経歴
ジェラードはもともと床屋(床屋外科)を生業としていましたが、趣味で庭師を行うことが高じ、本草書を記すまでに至ります。正式な植物学の教育は受けておらず、専門的な知識はないものの、イギリスの植物学の基礎を作ったとされています。
床屋外科の傍ら彼が行った植物研究は、ホルボーンの家の近くにに作った庭園で、植物を収集・栽培することで行われました。
航海家のウォルター・ローリー*1やフランシス・ドレーク*2と契約し、新世界の植物を収集したことでも有名です。
注*1):ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh, 1552年または1554年~1618年):イングランドの廷臣、探検家、作家、詩人。エリザベス1世の時代に、新世界に初のイングランド植民地を築いた。1584年の航海では、現在の米国ノースカロライナ州ロアノーク島を探検し、この島をバージニアと名付けた。
注*2):フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake, 1543年頃~1596年):イングランド・エリザベス朝時代の航海者、海軍提督。イングランド人として初めて世界一周を達成した。また、海賊(私掠船船長)でもあり、海賊を働いていたスペインの人々からは、悪魔の化身であるドラゴンを意味する名「ドラコ」と呼ばれていた。
ジェラードの業績
ジェラードのハーブにおける経歴・業績としては、まず、エリザベス1世の顧問ウィリアム・セシル*3)の領地バーリー(Burghley)の庭園責任者となったことでしょう(1577年より)。
注*3)ウィリアム・セシル:初代バーリー男爵(英: William Cecil, 1520年9月13日~ 1598年8月4日)。イングランドの政治家、廷臣、貴族。テューダー朝最後の女王エリザベス1世の即位から晩年まで、40年に渡り女王を補佐した重臣で、イングランドの国政を主導した。
さらに1588年には、ケンブリッジ大学の植物園設立を提案しました。
その後は、ジェラードはいくつかの著書を記していきますが、庭園の管理、造園から始まった彼の植物額の経歴にふさわしく、最初の書籍は自分の庭園の植物に関するものでした。
ジェラードの著書
ジェラードは、以下の順に、著書を残しています。
- 1596年:自分の庭で栽培している植物の目録を出版。
- 1597年:代表作『The Herball or Generall Historie of Plantes.(本草書または植物の話、本草書または一般植物誌)』を出版。
- 1599年:『Catalogus arborum, fruticum ac plantarum tam indigenarum, quam exoticarum.』
さらに、以下はジェラードの著書を元にしての改編です。
- 1633年:『The Herball or Generall Historie of Plantes. (Johnson’s edition)』
彼の著書『The Herball or Generall Historie of Plantes.(本草書または植物の話)』は、1,480ページに及ぶ大作で、自分の庭園の植物から、遠くは南アフリカの植物まで、膨大な数の植物が木版画の図版として掲載されています。
また、本書は民間伝承の内容も多いものの、先の多くの本草書を下敷きにした上、独自の加筆もされた内容になっているとされます。
当時の植物学は、「ディオスコリデスの『薬物誌』を研究する学問」から、「植物そのものを観察・分類する」形へと移行し始めていましたが、ジェラードの本草書も、その両方の性質を含んでおり、多くの図版も含まれていました。→ 近世のハーブI ? 近世の定義と、本草書の百花繚乱期 1.イギリス
ジェラードの『本草書』には、古代ギリシャの植物学者テオフラストスや本草家ディオスコリデス、その他の古代の文献がその基礎にあり、それら古代の文献からの引用も多く含まれていました。
一方、ジェラードの『本草書』は、大部分がフランドルの医師・植物学者レンベルト・ドドエンス*4の著作『ペンプタデス』などからの”盗用”だとも言われますが、それでも、当時知られていた植物の資料としては有用で、長く愛読されてきた1冊でした。
注*4) レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens, 1517年~1585年):フランドルの医師、植物学者。著書『クリュードベック』は多くの薬草を扱っているが、レオンハルト・フックスの影響を受け植物を6つのグループに分類し、薬学の書物として評価された。
彼が盗用したといわれる書籍には、以下のようなものがあります。
- レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens)の『クリュードベック』(Cruydeboeck)(1554年出版)。715の図版が掲載されたドイツの本草書で、世界中で翻訳されました。
『クリュードベック』は、江戸時代に日本にも紹介されています。ヨンストンの『動物誌』とともに、野呂元丈らによって蘭訳書から『阿蘭陀本草和解』などに抄訳されました。
ジェラードは、この書籍から数百の木版画の図版を流用しています。 - マティアス・デ・ロベル(Mathias de l’Obe)、Pierre Pena 共著の『Stirpium adversaria nova』(1571年出版)イギリス。
1,500種の植物、268枚の木版画の図版が掲載されています(第1版)。
- ヤーコブ・テーオドル(Jacobus Theodorus)の『Eicones plantarum seu stirpium 』(1590年出版、ドイツ)
ヤーコブ・テーオドルは”ドイツ植物学の父”と呼ばれる一人。同じくこの書籍も、他の著書の内容や図版が取り入れられており、それらは、ピエトロ・アンドレア・マッティオリ、レンベルト・ドドエンス、カロルス・クルシウス、マティアス・デ・ロベルなどの著書からのものです。
ジェラードの本草書の図版の大部分は、この書籍から流用されています。
この書籍も、他の書籍からの図版引用が多く、カロルス・クルシウス(Carolus Clusiu)、レンベルト・ドドエンス、ピエトロ・アンドレア・マッティオリ(Pietro Andrea Mattioli)の著書からの2,000以上の図版が取り入れられています。
さらに、ジェラードによる本書は、誤記が多いという批判も大きかったものの、薬種商・植物学者のトーマス・ジョンソン(Thomas Johnson)による改訂版(1633年出版)は、その後も長く利用されることとなりました。
ジョンソンは、植物学者としての専門知識を生かし、1700ページもの加筆、2776枚の図版の追加、さらに歴史に関する序論も追記しました。
さらに改訂は続けられ、結果的に、約2,800の植物の解説と約2,700の図版が掲載されることになります。もちろん、それらの植物の薬効も、専門的に的確に記されています。
こうしたことから、、ジェラードの版よりも信頼性の高い本草書として認められ、18~19世紀初頭まで、植物学者に利用されてきました。
当時は、新世界への開拓時代でしたが、移住した人々は、先に挙げたカルペパーの著書に加え、ジョン・パーキンソンの本草書『植物学の世界』、そしてジェラードの本草書(ジョンソンによる改訂版)も携帯され、新しい地でのハーブ栽培に利用されました。