ヨーロッパの歴史において「中世」は、古代ギリシャ・ローマの繁栄が衰退し(476年・西ローマ帝国の滅亡)、ルネサンス(復興)までの間の、「暗黒時代」と捉えられています。
一般的には、5世紀から15世紀の間が該当します。
ゲルマン民族の大移動が始まり、十字軍の遠征によりヨーロッパの領域が拡大した時代です。
文化的には「暗黒の時代」とされてきましたが、近年、「12世紀ルネサンス」の再評価も起きています。
そして、この「12世紀ルネサンス」までは、実質的に経済や文化の面で、イスラム・東ローマ帝国の影響もまだまだ残っていました。
“12世紀ルネサンス”:古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられた時代(アメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズの提唱、1927年)。
別の見方では、ゲルマン民族の大移動が収拾し定住化した後、キリスト教が人々へ浸透していった時代(9~10世紀)が、中世の開始ともされます。
そして、16世紀末に絶対王政による強大な中央集権国家が築かれた次の時代により、中世の終焉とする見方です。
どちらにしても、神々の人間的な大らかさが語られたギリシャ神話に代表されるような古代に対し、キリスト教による人々の信仰が培われ、そして、教会が大きな力を持つようになった時代と言えるでしょう。
注*上記:”中世”の定義):Wikipediaより
修道院とハーブ
こうした中世では、修道院がハーブとの関わりでも大きな役割を持っていました。
修道院は、地域の教会・学校・役所・病院の役割も兼ねており、その敷地内には薬草園を持つ修道院もあり、「施薬僧」という役割の僧もいました。
施薬僧は、薬草園で育てたハーブを乾かし保存し、薬として調合しますが、そのための専用の部屋もあったようです。
こうした修道院の薬草園は、現代のハーブガーデンの起源だとも言われます。
修道院が病院の役割も兼ねたと言われる所以(ゆえん)は、これらのハーブを利用して、村の人々を癒していたことによります。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
中世の修道院でハーブを研究した人物として有名なのは、ドイツのベネディクト会系女子修道院長ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, ユリウス暦1098~1179年)です(”ビンゲンのヒルデガルト”とも呼ばれます)。
医学・薬草学に強く、ビンゲンの地に自ら女子修道院を作り、「ドイツ薬草学の祖」とされています。
ヒルデガルドは、実際的な医学・薬草学の知識だけでなく、神秘家でもあり、幻視体験を持ち、女預言者ともされていました。
神の啓示を受け執筆した著書もあります。
ヒルデガルトによるハーブの知識は、和訳もある書籍でうかがい知ることができます。
参考)ヒルデガルトのハーブについての書籍
『ヒルデガルトのハーブ療法―修道院の薬草90種と症状別アドバイス 』ハイデローレ・クローゲ著(フレグランスジャーナル社 )
上記の書籍では、修道院とヒルデガルトが用いたハーブが90種、またそれらをアレンジしたヒルデガルトの植物療法を症状別で58例、紹介されています。
シャルルマーニュ
ヒルデガルトの時代より数世紀さかのぼり、フランク王国(領土最大時期で西ヨーロッパのほぼ全域)のシャルルマーニュ(カール大帝, 742年~814年)の時代もまた、ハーブが保護された時代と言っていいでしょう。
シャルルマーニュは、当時、隆盛を極めていて東ローマ帝国に対抗し西ローマ帝国の皇帝と自らを称し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖とされます。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化を融合し、「ヨーロッパの父」とも呼ばれます。
ザンクト・ガレン修道院
シャルルマーニュはハーブの知識にも厚く、王領荘園の管理・運営方法を記した「御料地令」第70条には、73種のハーブが、宮廷の庭で栽培されるべきリストとして挙げられています。
そして実際に、この御料地令を元にハーブ園を盛り込んで改修されたのが、シャルルマーニュの領地内にあったザンクト・ガレン修道院(スイス北部ザンクト・ガレン市)でした。
このザンクト・ガレン修道院の、改修の際の設計平面図は、現存する唯一の修道院プランであるらしく、当時の修道院の作りと、ハーブ園について良く知ることができます。
上の平面図のうち、左上の「T」のエリアがハーブ園で、以下の16種類のハーブが植えられていました。
- マドンナ・リリー、ガーデン・ローズ、ソラマメ、キダチハッカ、コストマリー、コロハ、ローズマリー、ペパーミント、セージ、ヘンルーダ、ドイツアヤメ、ペニーロイヤル、スペアミント、クミン、ガーデン・ラヴィッジ、フェンネル
現代でも、ハーブといえば必ず出てくる馴染みのハーブもあれば、あまり耳慣れないハーブもありますが、これらの大半は、シャルルマーニュの「御料地令」の中に出てくるハーブでした。