薬用植物の日本への伝来
ヨーロッパが中世の時代、中国と日本でも薬用植物の利用や研究が発展しました。
東大寺正倉院
日本では、538年の仏教伝来後、遣隋使・遣唐使の派遣により、隋・唐から薬草が持ち帰られました。
その後、それらの薬用植物は東大寺正倉院に保管され、東大寺の『種々薬帳』に約60種類が記録されました。
リストの中の約60種類のうち、約40種類は現在でも正倉院に保管されています。
そのうち、植物の生薬として馴染み深いものに、
- ・畢撥(ヒハツ・インド産ナガコショウ)
・胡椒(コショウ・インド産コショウ)
・無(没)食子(ムショクシ)
・呵(訶)梨勒(カリロク・カラカシ・シクンシ科ミロバランノキの果実)
・桂心(ケイシン・クスノキ科ニッケイの樹皮)
・人参(ニンジン・ウコギ科コウライニンジンの根)
・大黄(ダイオウ・タデ科ダイオウの根茎)
・甘草(カンゾウ・マメ科カンゾウの根)
・蔗糖(ショトウ・イネ科サトウキビの茎から得られる、いわゆる砂糖)
などがあります。
蔗糖(ショトウ)が生薬として含まれているところが興味深いですね。
中国の長江文明と、日本の”漢方医学”
当時中国では、すでに起源500年頃、中国最古の本草書『神農本草経』が編纂されており、植物とその薬効が豊富に知らせていました。
中国で薬草の研究が盛んになされたのは、植物が豊富に生育する暖かい南部、長江文明においてですが、日本に渡来した薬草とその知識も、この長江文明からでした。
長江文明での植物の観察やその薬効、医学は、とても実践的なものでしたが、それが日本に伝わり、日本で独自に発展したのが、”漢方医学”です。
続く8世紀中頃、中国より僧侶の鑑真和上が来日すると、仏教と同時に医薬品や中国医学も伝えました。
鑑真和上が伝えた生薬の中には、生薬として有名な人参や甘草などが含まれていました。
さらに鑑真和上は、中国からさらに遠方の西域や、南海からもたらされた薬も日本へ伝えています。これらもまた、「正倉院薬物」として正倉院に納められました。
日本の本草書
こうして、日本で漢方医学が発展していく中で、日本でも独自に医学書・本草書が編纂されていきます。
808年には、日本最古の医薬学『大同類衆方(だいどうるいしゅうほう)』(100巻)が完成します。
また982年には、隋・唐の医学を要約した日本最古の医学書『医心方(いしんぼう)』(30巻)が、丹波康頼(912~995年)により完成されました。
さらに日本国内で、薬草が集められた記録もあります。
醍醐天皇の勅命によって編纂された『延喜式(えんぎしき)』(905~927年)には、日本国内から集められ朝廷に献上された170種類以上の生薬が記録されています。
この頃までには、日本独自の漢方医学が確立したと言われます。
ところで、日本薬局方(医薬品の品質規格)の前身である”和剤局方(わざいきょくほう)“は、明治の初めまで使われていましたが、この”和剤局方”のもとは、中国の北宋の時代(1100年頃)に皇帝の命により編纂されたものでした。
西洋文明が大規模に入ってくる明治以前までは、日本の薬草や医学の知識は、中国をお手本にしたものだったのです。
シルクロードがもたらしたもの
ところで中国といえば、大航海時代にヨーロッパの国々が海のルートを開拓し始める前、ヨーロッパへ様々な物資や文化を運んだシルクロードが有名です。
ヨーロッパには珍しかったスパイスやハーブが、シルクロードを通って運ばれ、ヨーロッパで貴重品とされました。
マルコ・ポーロ
シルクロードを通って旅をしたことで有名なのが、イタリアの商人マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254~1324年)です。
彼が著書『東方見聞録』の中で記したハーブやスパイスには、
- ケイヒ、コショウ、ジャコウ、ショウノウ、ダイオウ、ニクズク、リョウキョウ、ビャクダン
などがありました。
また当時、ヨーロッパの料理の中にすでに使われていたシナモンやショウガも、中国やその他アジアの国からの輸入品でした。
これらは、クローヴ、ナツメグ、サフランなどとともに、当時のヨーロッパの料理でもよく使われるスパイスでした。
このように、マルコ・ポーロの『東方見聞録』や、シルクロードを通してもたらされたハーブ・スパイスなどへの興味から、続く大航海時代へと時代が進められていくのです。